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鹿沼の地域資源シリーズ① 「麻」
真冬のような寒さが続いています。
インフルエンザの流行も近づいてきたようです。体調に、じゅうぶん気をつけたい季節になりました。
ブログを書くのも久しぶりですが、県議補選・知事選が終り、何となく一息ついたような気がして、
つい更新をサボってしまいました。あいすみません。
と、いうことで、気分を取り直して新しく記事を書いてみます。
今回のテーマは、再び鹿沼の地元学を考える記事です。テーマは「麻」です。

「麻」といえば、昨今のニュースでは、大相撲力士にはじまって、大学生やスポーツ選手などの
大麻汚染の話題が絶えません。
何か、すっかりイメージを悪くしてしまったような気がします。
しかし、大麻は、昔から鹿沼地方の特産物であり、現在でも国内随一の産地です。
今年の春には、「野州麻の生産用具」が、国の重要民俗文化財に指定されています。
指定を記念して、県立博物館で開催された「野州麻~道具が語る麻づくり」という企画展は
私も見に行きましたが、展示されている麻づくりの道具などの資料の大半が、鹿沼地域のものでした。
これを見て、鹿沼地域が麻の一大生産地であり、麻がさまざまな形で利用されてきたことが分かりました。

また、「鹿沼市史」を読んでいると、麻がさまざまなところで重要な要素として登場します。
栽培や流通の記録は江戸時代から続き、
近代になると帝国製麻など、麻を利用した近代産業も発展します。
また、「民俗編」を読むと、麻にまつわる独特な民俗が、鹿沼地域に根付いていることも分かります。
まさに、麻こそが、鹿沼を代表する地域資源であり、鹿沼の「顔」のひとつではないか、という気がします。
しかし、現在、鹿沼の人々にとって、「麻」はそのように認識されているでしょうか?

現在使われている小学生用の教材には、麻栽培の記述が、少し載っています。
また、文化活動交流館の郷土資料展示室にも、麻の栽培道具などの展示が少しあります。
ですが、実際に麻の栽培が行われているのは、上南摩や永野地区がほとんどで、
そのほかの地域では、麻の風景を見ることができなくなっているのが現状です。
昭和30年頃までは、鹿沼市域の山間部や台地部では、どこでも麻の栽培が行われ、
麻の仲買人や卸業者もたくさんあったようです。
しかし、高度成長期に化学繊維が急速に普及し、麻の需要が激減したことで、
鹿沼の麻栽培も、急速に廃れていきました。
現在は、神事や注連縄(しめなわ)などの需要に、支えられているといいます。

このような状況ですから、麻に馴染みのある人が少ないのも、やむを得ないかもしれません。
しかし、それでも鹿沼市域は、全国でほとんど唯一の大麻産地には違いありません。
それならば、ここはなおさら、鹿沼の代表的な地域資源として
「大麻」をクローズアップするべきではないでしょうか?
なにしろ、j鹿沼以外の地域に住む人にとっては、
「大麻」が、本来、繊維の原料であるということすら、知られていないものなのです。
「麻薬」のイメージが強すぎるためかもしれませんが、
鹿沼以外の地域では、麻が栽培されている風景や、
それを加工している場面を、見ることすらできないのですから。

でも、鹿沼には、まだ麻を栽培している農家があります。
何十年か前まで、麻の仲買をしていたり、卸売りを営んでいた家もあります。
帝国繊維会社も、業態は変わりましたが、まだ鹿沼で営業しています。
それらの資料も、まだたくさん残っています。
ですから、これら麻に関する資料や情報をきちんと収集・記録して、
麻に関する情報の拠点とすることができると思います。
また、下永野で「野州麻工房」を経営する大森さんのように、麻から作った紙を活かして
工芸品などの開発に取り組まれている方もいます。

「大麻」のイメージが悪化している今こそ、
全国に向けて「麻はこんなに素晴らしいんですよ」と、
アピールする絶好の機会ではないでしょうか?
麻の歴史、麻の民俗、麻の文化、植物としての麻の特質、
そして麻の利用、
そうした情報を集約し、発信することができるのは、全国でも鹿沼だけ、といっても良いと思います。
これに取り組まない手はありません。


ただ、麻の栽培には、大変な労力を要するようです。
需要も増えてるわけではありません。
ですから、ここは鹿沼市を挙げて「麻」を盛り上げるために、
栽培農家への支援や、新製品開発への補助などは言うまでもありませんが、
それよりもなにより、市民に向けて、鹿沼の麻が誇るべきものであることを広く知らせ、
市民の総意で取り組む姿勢をつくることが肝心でしょう。

手始めに、「鹿沼市史」の別冊で「鹿沼の麻」といったものがあれば、
格好のテキストになると思うのですが、そこいらへんから始めてはいかがでしょうか?
なにしろ、「鹿沼市史」の麻に関係する記述は、
「近世」「近現代」「民俗」「地理」等に散らばって掲載されているので、
調べるのがたいへんなのです。

ということで、鹿沼の地域資源シリーズ1回目は、鹿沼の「麻」について考えてみました。

皆さんのご意見もお待ちしています。


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【2008/11/27 06:02 】 | 地元学 | コメント(7) | トラックバック(0)
知事選終了
一昨日の16日(日)、栃木県知事選挙がおわりました。

投票率 32.28%

福田富一(現) 自民・公明推薦  426,336票
渡辺 繁(新) 共産推薦       83,430票

ということで、現職の福田知事が再選されました。
かねてから低投票率が心配されていましたが、折からの雨天もあいまって、
過去二番目の低投票率になってしまったようです。
同時に行われた宇都宮市長選挙が無かったら、30パーセントを割り込んだかもしれません。

その宇都宮市長選挙の結果も見てみましょう。

投票率 40.28%

佐藤栄一(現) 自民・公明推薦  80,529票
今井恭男(新) 民主・社民推薦  41,166票
山本直由(新)            23,589票
浅野薫子(新)            15,250票

こちらも保守系の現職が再選されました。
4年前に福田知事が宇都宮市長から知事選に転出した時、後任の市長選で選出されたのが
現職の佐藤市長ですから、二人は「セット」という感じもします。
宇都宮市長選挙では、新交通システムLRTの導入問題ばかりがクローズアップされ、
新人の3候補はいずれもLRT導入に反対していました。
現職の佐藤候補は、LRTについては名言せず、争点になることを避けていたようです。
「下野新聞」の世論調査でも、LRTの賛否については反対派が多数でしたが、
選挙結果がこのようになったことを見ると、LRTの賛否が、この投票結果で示された、
とは、とても言えないと思います。
落選した3候補の得票合計は約8万票で、現職の得票とほぼ同数ですから、
候補者が乱立したことが、現職有利に動いたことは否めないでしょう。

ところで、宇都宮市長選の報道を見ていて気になった点が一つあります。
確か、宇都宮市が、小児医療の無償化を小学六年生まで実施していることに関して、
鹿沼市の佐藤信市長が、「宇都宮に出来て、鹿沼でも出来ないのか」といったことをよく言われるが、
財政規模が違うので、そう簡単にはいかない、と答えていたことです。
鹿沼市と宇都宮市は隣接し、通勤・通学や商業などで多くの交流があるだけに、
「宇都宮市が羨ましい」という声が強くなるのも、やむをえないでしょう。
しかし、人口規模で5倍の格差がある自治体ですから、
財政出動を伴う政策については、簡単に可否を求めることは、無理があると思います。
ですから、鹿沼市としては、鹿沼の特性に合った政策を立案することが、一層求められると思います。

話を知事選に戻しますが、予想通りの低投票率で、争点もはっきりしない選挙になったのは、残念でした。
しかし、渡辺候補が獲得した83,430票は、共産党系の候補者が獲得した票としては、
過去最多だったのも事実です。
大物候補二人が出た4年前の前回選挙では、2万4千票、その前は3万4千票ですから、
共産党系候補者の基礎票は、約3万票といったところだと思います。
ですから、今回の8万を超える票には、現職への批判票が5万票程度は上積みされていると思います。
返す返すも、民主党が候補者を立てなかったことが残念でたまりません。

余談になりますが、以前の記事で、落合恵子さんを県知事の候補に擁立することを提案した私ですが、
実は、そのことを知人に話したところ、「それは良い提案だ」と賛同した友人が、
県内出身の民主党議員にメールで「落合さんでどうだ?」と、意見を送ったそうです。
すると、簗瀬参院議員からは返事は来ませんでしたが、
福田昭夫衆院議員と、谷ひろゆき参院議員からは返事が来たそうです。
福田議員からのメールは、単なるお礼でしたが、
谷議員からのメールには、以前に落合恵子さんや立松和平さんの名前が挙がっていたことが
記されていたそうです。
ただ、両者ともその意思が無く、擁立できなかったようでした。
な~んだ、民主党の執行部も、私と同じことを考えていたのですね。
落合さんについては、今回は駄目でしたが、貴重な人材だと思いますので、
いつか国政などの場で活躍して欲しいと願っています。

また話を戻しますが、栃木県知事に再選された福田氏が、今後どのような県政を進めていくか、
注視していきたいと思います。
特に、財政問題や、那珂川からの導水事業などは、目が離せません。
県議に当選した松井正一氏にも、県政のチェック役として活躍されることを期待します。

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【2008/11/18 19:54 】 | 県の選挙 | コメント(0) | トラックバック(0)
鹿沼の「顔」を考える~地元学の視点で
またも更新があいてしまいました。あいかわらずの多忙続きのためです。ご容赦下さい。
明日は栃木県知事選挙の投票日です。
期日前投票の出足が、あまり良くないようで、低投票率を心配する報道が目立っています。
しかし、当ブログでも何度も指摘したように、決して争点のない選挙ではありません。
明日の投票日には、棄権しないで投票にいきましょう。
私も、必ず投票に行くつもりです。
知事選の話題は、選挙結果が出てから、まとめを書きたいと思います。

さて、本日の話題ですが、前回記事の関連です。
前回記事では、中心市街地の国道拡張等に伴って、古くからの町並みや建物が失われ、
街の顔が消えていくことに疑問を呈しましたが、
今回提案したいのは、では、鹿沼の「顔」って、いったい何だろう?というテーマです。

先日、所要で栃木市へ行く機会がありました。
ちょうど今日・明日が秋祭りということで、街中には提灯が付けられ、お祭りムードが高まっていました。
で、栃木の市街地を歩いてみて、あらためて思ったのは、
どこを歩いていても感じる「栃木市の顔」のインパクトの強さでした。
電柱やアーケードが撤去された大通りには、昔からの蔵造りの商家が並び、
一歩裏通りに足を踏み入れれば、巴波川の流れと、柳の枝、鯉の姿、
そして昔ながらの路地の奥には、何代に渡って生活してきた街の人の暮らしの息吹きを感じる家々が並び、
街のあちこちで、「ここは栃木だ」ということを感じることができます。
そんな中で行われる秋祭りに繰り出される京都の祇園風の山車は、ひときわ街の風情ににマッチします。

栃木市の場合は、早くから「蔵の街」をテーマにまちづくりが進められ、定着してきました。
その中で、山車会館や山本有三記念館、蔵の街美術館などの整備も進められ、
蔵の街と一体化した統一イメージを作り上げてきました。
その結果として、見事に街のイメージつくりに成功した例と言えるでしょう。

ひるがえって、鹿沼のまちづくりを見てみると、いったい何を目指しているのか、
さっぱり見えてこないような気がします。
秋祭りと屋台の活用を目指しているのは、よくわかります。
20年近くまえからこの取り組みは始まり、これまでに、
屋台の展示施設をあちこちに造ったり、
各町の屋台保存庫を造ったり、秋祭りに補助をしたり、
祭りを国の文化財にしたりと、さまざまな事業を進めてきました。
その結果、秋祭りと屋台はずいぶん全国的にも知られるようになり、
秋祭りも盛大に開催されるようになりました。
祭りの際の観光客も、以前と比べると増えてきたように感じます。
しかし、それ以上のものがあったでしょうか?

私は秋祭りや屋台には、前から興味があり、その歴史等について調べたことがあります。
その中で、一番興味深かった事実は、各町内が所有する屋台が、
町内の人々が少しずつお金を出し合って造ったものだったことです。
屋台や山車を繰り出す祭りは全国にたくさんありますが、
屋台や山車を作る巨額の経費を捻出するために、一部の裕福な人がスポンサーになるのではなく、
町の人々がその資産の大きさに比例してお金を出しあったケースは、意外と少ないのだそうです。
まさに、鹿沼の屋台は、鹿沼に住む人々が自らの手で造り、伝えてきた「財産」だったわけです。
その鹿沼の町を、道路拡張な区画整理などで、無造作に壊し、顔の無い町に作り変えることが、
果たしてまちづくりといえるのでしょうか?

また、今でもよく言われる「俗説」として、
「鹿沼の屋台は日光東照宮を造った職人が、冬、仕事ができなくて山を降りたときに造ったものだ」
というものがあります。
しかし、ちゃんと調べてみると、そのような事実はどこにもありませんでした。
実際は、富田宿(大平町)で活動していた彫師集団の磯部一門が彫刻のほとんどを手がけており、
一部は地元鹿沼の彫師も手がけています。
だいたい、よく考えてみれば、日光東照宮の造営は江戸初期、
鹿沼の屋台が造られたのは江戸後期~幕末ですから、上の「俗説」が成立するわけは無いのですが。
なのに、今でもこうした俗説がまかり通っているということは、
「屋台のまちづくり」をうたっていながら、まちづくりの主体となるべき行政などが、
屋台の歴史など、その背景をきちんと教えていないかを、証明するものではないでしょうか。
鹿沼のまちづくりのあり方が、、こんなもので良いのでしょうか?

そうです、これまでの鹿沼のまちづくりに欠けていたのは、
まちに住む人が、自らの町の財産(歴史・文化・民俗など)を知り、
その価値を活かすために、どうすれば良いのか?
私が何度も当ブログで取り上げてきた
「地元学によるまちづくり」の視点が、決定的に欠けていたと思います。


実は、前回記事に対して、「鶯のマサ」さんから、次のような拍手コメントをいただきました。
私の言わんとするところは、まさにこのコメントに的確に言い表されていますので、
勝手ながらご紹介させていただきます。

「鹿沼の市街地は,確かに時代に取り残された感のある町並みであるとは思います。
でも,これからのまちづくりを考えるときには,そこにある文化をどう守り,生かして,
次の世代につなぐかということが,肝心だと思います。
その文化とは,まちの記憶,つまり,資料に残る歴史,先人の残した造作物(建築物),
生活に溶け込んだ行事ではないでしょうか?
資料収集は,進んでいます。行事も残っています。
町並みは・・・良いも悪いも含めて,消去されてきていますね。
道路中心のまちづくりは寂しいです。」


鶯のマサさん、ありがとうございました。
貴方がおっしゃっていることが、まさに地元学の視点なんです。
私も微力ながら、地元学を鹿沼のまちづくりに活かすために、
どのような取り組みをしていくべきなのか、少しずつ考えていきたいと思っています。
一緒に鹿沼の顔とは何か? 考えていきましょう。
そして、このブログの読者の皆さんも、鹿沼を愛する気持ちでは同じだと思います。
皆で考えていきましょう!


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【2008/11/15 22:06 】 | 地元学 | コメント(0) | トラックバック(0)
市街地の道路拡張に思う
1週間のご無沙汰でした。
前回、「まとめ」のような記事を書いて、しばらく更新しなかったので、
ブログが終わるのでは?というご心配をさせてしまったかもしれませんが、
そんなことはありません。
今週も多忙のため、更新できなかっただけです。ブログはこれからも続きます。

すでに皆さんご承知の事と思いますが、11月7日に県議補選が告示され、
予想通り立候補者は松井正一市議だけだったため、即日無投票当選が決まりました。
これで、鹿沼・西方地区の県議の顔ぶれは、
 神谷幸伸(自民)
 小林幹夫(自民)
 松井正一(民主)
の3人ということになり、自民2・民主1の勢力分野はそのまま維持されることになりました。
松井氏の任期は、佐藤市長の残任期間ということになり、2011年4月までになります。
知事選挙は16日です。皆さんも投票をお忘れなく!

さて、久しぶりのブログですが、今日はひとつ、問題提起をしてみます。
それは、昨今の市街地における道路拡張工事に関して、考えたことです。

それを考えるきっかけになったのは、あるブログを見たことでした。
「かぬま通信」と題したそのブログは、
「とある地方建築大学院生の、栃木県鹿沼を通して見るまちと住まい方について」
と紹介されていますが、建築をまなぶ大学院生が、鹿沼市街に残る町並みや民家建築などについて
調査を重ねる様子と共に、さまざまな事例を紹介するものです。
2006年12月から始まっており、私もそのころから良く見ていましたが、
最近は、特に下材木町の記事が集中しています。
それは、現在、市街地大通り(国道293号線)下材木町地内の拡幅工事が迫っており、
そのために、街道西側の民家の取り壊し工事が始まっているからです。

先日そのあたりを通ったところ、既に一軒の家がきれいに取り壊され、更地になっていました。
ちょうどそこは、望月菓子店があったところでした。
その時思い出したのは、10月16日の「下野新聞」の記事でした。
その記事を一部引用してみましょう。
「鹿沼土を使ったサツキ栽培の先駆者といわれている故福富源次さんが、サツキの栽培に使っていた下材木町の石室が今月下旬、取り壊される。石室は現在、望月六郎さん(86)、佐代さん(85)夫婦が営む望月菓子店の建物内にあるが、国道293号の拡張工事に伴い、建物ご取り壊されることになったという。二十歳の時に養女として東京から同市に来た佐代さんは、養父の傳冶さんから「この石室が鹿沼のサツキの発祥地」と聞かされていた。ここは以前、福富さんが旅館を経営していた場所で、石室を設けていた。「月刊さつき研究」などを出版している市内の栃の葉書房によると、福富さんがこの石室で鹿沼土を使ってサツキの挿し芽をしたところ出来が良く、現在のサツキ栽培のスタイルを確立して。1914(大正3)年ごろには鹿沼土が販売され、サツキ栽培が全国に広がっていったという。」

サツキは鹿沼の特産であり、「鹿沼土」の名前も、全国的に有名ですが、
その歴史が意外と新しく、大正時代のことだったことは、案外知られていないようです。
私ももっと古くからあると思っていましたが、「鹿沼市史 地理編」を読んで、
上記記事のような経緯を知ることが出来たものです。
その「サツキ栽培の先駆者」である福富さんの作業場が、いまだに残っていたとは驚きでした。
今回取り壊された作業場は、上記記事によると、
「石室は縦約2㍍、横約10㍍、大谷石でできている.お菓子を作る作業場に隣接しており、建物の一番奥の西北側に位置している。(中略)夫妻は、「鹿沼のサツキの歴史にとって重要な建物だが、取り壊すことになって残念」「寂しいけれどしょうがない」と話している。」
と報じられています。

なんとも残念な話です。
サツキといえば、鹿沼を代表する産物であり、サツキまつりは鹿沼の一大行事として定着しています。
また、サツキは鹿沼市の市花にもなっています。
その歴史を物語る重要な痕跡が、道路拡張によって、あっさりと姿を消してしまったわけです。
2×10メートルほどの小さな建物ですから、
例えば、花木センター内に移築するとかいった方法は取れなかったのでしょうか?
全国的なサツキ栽培のメッカでありながら、その歴史については、蔑ろにされていないでしょうか?
当ブログもで何度も書いていますが、これからのまちづくりを考える際には、
地元に住む人々が、どれだけ地元の事(歴史・文化・自然・産業など)を知り、
それを活かす方向で進めていくかが、大きな鍵だと思います。
サツキについても、単にサツキや鹿沼土を扱う業界の売り上げを論じるのではなく、
鹿沼にとってサツキとは、鹿沼土とは何なのか?
それを活かしたまちづくりとは何なのか?
そうした視点で考えていく必要があると思うのです。
その意味からも、今回、「サツキ栽培発祥の場所」を、
いとも簡単に消してしまったことが、とても残念に思います。

ところで、今回のテーマを考えるようになったのは、この石室のせいだけではありません。
石室のあった望月菓子店から、少し南の交差点の北西角に、山野井商店の建物があります。
こちらの写真をごらんいただくと、「あ~、あれね」と、お気づきになるでしょうが、
西洋モダン風のしゃれた建物で、大正ロマンを感じる趣のある建物です。
この建物も、国道の拡張によって、まもなく取り壊されようとしているのです。
山野井邸については、上記ブログの運営者が別に作られているサイト「鹿沼建築アーカイヴス」でも
詳しく紹介されていますが、それによると、
「Y邸は以前、北関東一の卸量を誇る商店であった。その名にふさわしく、商店部分は、御影石の洗い出し(注1)で古典様式のモチーフをかたどった洋風意匠を備え、住まい部分は落ち着いた純和風の建造物である。この和洋混合こそがY邸の一番の特色である。鹿沼に現存する歴史的建造物の中でも昭和初期の様子をよく象徴し、職人技術の質の高さを知るための極めて貴重な建造物である。」
注1:砕石(Y邸では1分[約3㎜]の御影石)を混ぜ合わせたモルタルを壁面などに塗り、完全に硬化する前に水をかけ、砕石を洗い出す左官技法。玉砂利を利用した洗い出しは、現在の住宅の玄関土間などによく用いられるが、Y邸にみる1分という細かい砕石を用いた洗い出しは高度な技術を要し、今日ではあまり見られなくなった。 」
さすが、建築学の専門家ですね、わかりやすく説明されています。
大正ロマンと思っていたら、昭和初期の建築だったんですね。
その技術的な高さや、貴重な意匠であることがわかりました。
そうした建築学的な価値だけでなく、この建物は、南から鹿沼市街地に入る時、
また、鹿沼インター方面から市街地に入る時に、
鹿沼市街地のシンボル的な建物になっていたと思います。
また、望月菓子店の北側にある岡本歯科医院の建物も、
大正~昭和初期の貴重な洋風建築だと思われますが、
これも道路拡張で姿を消すかもしれません。

ここ10年ほどの間に、下横町を中心とする中心市街地の区画整理事業によって、
鹿沼の中心市街地は、その姿を一変させました。
その結果、たしかに道は広くてきれいになり、家々も多くが建て替えられて新しくなりました。
でも、そのあたりを歩いてみて、「いったい、ここはどこの街なのだろう?」と思うことがあります。
先ほど述べた山野井商店や岡本歯科のような特徴的な建物ではなくても、
昔からそこにあった家や路地、水路や商店など、町の顔が消えてゆき、
住宅メーカーがつくる全国どこでも見られるような家が建ち、
自動車がスピードを上げて走り去る広い道が作られていく。「
まちづくり」とは、そうしてスクラップ&ビルドをすることだけが目的なのでしょうか?

確かに、下横通りは狭くて一方通行で、中心部の東西交通の障害になっていましたが、
それを解消するのが目的であれば、あんなに広い範囲で区画整理事業を行う必要があったのでしょうか?
この区画整理事業と、国道の拡幅によって、
鹿沼の市街地の大切な「顔」を失ってしまったように感じるのは、私だけでしょうか?
国道の拡幅が、今後、どこまで続くのかわかりませんが、
バイパスの開通や商業地が西茂呂方面等に移りつつあることなどから考えると、
中心市街地の道路を、これ以上拡幅する意味を感じないのです。
天神町から北側には、国道沿いにまだ昔の「顔」というべき建物が残っています。
もし、こちらの拡幅も予定されているのでしたら、やめていただきたい、と切に思います。

最後に、「かぬま通信」の管理人さんの10月17日の記事から、次の言葉を紹介しておきます。
「鹿沼旧市街の古い町並みの研究を初めて3年になります。
その間、地元住民の方々の暖かい歓迎のもと、たくさんの旧家にお邪魔しました。
その中に、足を踏み入れた瞬間、鳥肌が起つ建物がいくつかありました。
感動すると同時に、ずっとここにいたいなぁ、と立ちすくんでしまう建物。
そういう素晴らしい建築が、鹿沼には埋もれるように残っています。
そんな建物たち、今週から始まった道路拡幅に伴う敷地の半減によって、
国道沿いでたくさん壊されます。
車の利便性向上という一部の人たちの利益のために、
地元住人が何代にも渡って受け継いだ「生活の場」という一番根源の部分を
一方的に奪い去ってしまう行為が、当たり前にように行われています。
僕は相変わらず、そのな建物を一つでも多く写真と図面に残そうと、
毎日旧市街に出ていますが、そんな、今は誰も見向きもしない資料が、
「まちにとって、いつか必要になるときが来る」
と言ってくれた建築の先生の言葉を信じて、
明日も調査に行こうと思います。
ので、
見かけたら声をかけてください!」


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【2008/11/09 14:57 】 | 市政全般 | コメント(0) | トラックバック(0)
閑話休題 ブログのこれまでとこれから
最近、記事で鹿沼市の話題を取り上げることが、少なくなっていますが、
市町村合併や県知事選について書いたときは、ことのほか拍手が少ないような気がします。
このブログには毎日30~50程度のアクセスをいただいており、
市長選の最中から比べると半分程度に落ちているのですが、
あのころは2日に1回は記事を書いていましたから、
ひとつの記事あたりのアクセス数は、あまり変わっていないと思います。
にもかかわらず、拍手数が減っているということは、
記事の内容に魅力がなくなっているということでしょうから、
ブログを書き続けるにあたって、これは反省材料として受け止めたいと思います。

ということで、ちょうど11月になりましたので、
この機会に、当ブログについて振り返ってみたいと思います。

ブログをはじめたのは、今年の3月3日でした。
当時のタイトルは「鹿沼市長選挙に候補者を擁立しよう」でした。
阿部前市長の3選出馬が早々に発表されながら、対抗馬がいっこうに浮上せず、
何とかしなければ、という思いで立ち上げたものです。
ブログを書くこと自体、初めてだったので、何もかも手探りのスタートでした。
最初は阿部市政の問題点などを順次書いていましたが、
いっこうに現われない対抗馬にストレスをためていたのは、私だけではなかったようで、
ブログのコメント欄や、拍手コメント欄に、私に立候補を勧めるメッセージを、何度もいただきました。

そして、3月中旬に佐藤信県議が出馬を表明、以後は市長選の争点について書くつもりでした。
ところが、3月23日、阿部前市長らが暴力団組長と密会したという衝撃のニュースが入り、
しばらくはその話題一色になりました。
当ブログへのアクセスが急激に伸びてきたのも、このころでした。
以後、この問題と市長選の争点を書くことが中心となり、
5月の選挙告示まで続きます。
告示後は公選法に配慮して更新を停止、投票終了と同時に再開しました。
佐藤市長の圧勝に終わった投票日とその翌日は、アクセス件数が一日200件を超えました。

この時点で、ブログはその使命を終えたことになり、終了することも考えましたが、
継続を求める声をいただいたこと、
そしてなにより今後の鹿沼市政についてもチェックをする必要があると考えたことから、
ブログの継続を決めました。
タイトルを変更し、更新も週1~2回と決め、「細く長く」続ける決意をしました。

その後は、マイペースで更新を続けています。
ちなみに、本日の記事が、ちょうど80本目となります。
そこで、これまでに拍手数が多かった記事をリストアップしてみました。(10月31日現在集計)

1位  3/3  鹿沼市長選の候補者はおらんか~  82拍手
2位  3/7  ジャスコ跡地利用に疑問あり      74拍手
3位  3/23 鹿沼市長、暴力団組長と密会!    66拍手
4位  3/8  鹿沼にダムは必要か?         62拍手
5位  5/25 佐藤新市町誕生!            59拍手
6位  5/14 選挙予想ー投票率UPがカギ      58拍手
     3/24 責任は報道にあるのでしょうか?      
8位  5/6  私が佐藤氏を支持する理由④財政問題  57拍手
9位  5/18 これまでのまとめー市長選の争点    55拍手
10位  3/22 佐藤氏が訴える市長選の争点      53拍手
11位  5/4  市役所の人事を考える           49拍手
12位  4/23  市民に投げられた選択権        47拍手
13位  3/5   お祭り行政を見直そう           46拍手
     3/30  開かれた市政を作るには
    4/20  鹿沼の政界史~おさらい
    5/12  さとう信総決起集会とマニフェスト
    5/30  最終回ー佐藤市政の今後は?
18位  3/12 「開かれた市政」の実情         45拍手
19位  7/9  議員辞職勧告決議可決ーしかし    44拍手
20位  3/4  JR新駅設置問題について       42拍手
     3/17  水から考えるまちづくり

以上、ベスト20の発表でした。
初期の記事が圧倒的に多く、リニューアル後の記事で入っているのは19位の記事のみです。    
この中では、2位のジャスコ跡地利用問題、4位のダム問題、8位の財政問題の記事などには、
いまだに少しずつ拍手をいただいています。長きにわたって支持されている記事といえるでしょう。
逆に、地元学や地産地象に関する記事、市役所の人事に関する記事などは、
比較的拍手がつきませんでした。
ブログ読者が、どのような記事を求めているか、その傾向がうかがえます。
最近の記事では、県知事選や合併問題など、
直接鹿沼のことを扱わない記事への拍手が、少ない傾向にあります。

実は、当ブログが利用しているFC2ブログには、アクセス解析サービスがあり、
アクセス状況が自動的に集計できるようになっています。
どのような人が、そのくらいアクセスしているのかが、一目で分かるほか、
yahooやgoogleなどの検索エンジンから、どんな検索ワードでこのブログにたどり着いたかも分かります。
このサービスを利用し始めたのは6月からですが、
最初の頃は「鹿沼市長選挙」「佐藤信」「阿部和夫」「暴力団」「密会」などのキーワードで検索する人が多く、
そのうち「小松議長」「鹿沼市議会」「議長辞職勧告」などが目立つようになりました。
一貫して多いのは「鹿沼市長」「鹿沼市政」といったキーワードですが、
最近は「スイングトワイライト」「トトロ」「市町村合併」なども見かけるようになりました。
いずれも、最近、記事中で話題にしたからでしょう。
どのような方がブログを訪問しているのかが分かり、興味深いです。

ということで、ブログについて、いろいろと振り返ってみましたが、
我ながら、よくここまで続けてきたなあ、と思います。
これからも、マイペースで鹿沼市のこと、市政のことなどを中心に、
ブログを書いていきたいと思いますので、よろしくお付き合い願います。

皆さんのご意見や情報も、お待ちしています。


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【2008/11/01 11:58 】 | ブログの紹介 | コメント(0) | トラックバック(0)
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